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名家の宿命 ⑩

last update Last Updated: 2025-04-13 20:20:05
「グレタたちがどこへ向かうにせよ、グレタがこの村を訪れた理由を軽視するわけにはいかない」

 ただ買い物に出かけたというわけではないだろう。グレタは何かを企んでいる。

「覚悟を決めなければならない時が来たのかもしれない」

 クラウディアはそっと呟いた。

 リノアを危険な目に晒すわけにはいかないが、グレタが言っていたように、もうそのようなことを言っている場合ではない。

 リノアの力を信じなければ、この村の未来は守れないのだ。

「トラン、ミラ、お前たちは寒い中、本当によく頑張ってくれている。村のみんなも二人の働きを頼りにしているよ」

 クラウディアの声には冷静さと共に温かな励ましが込められており、その言葉は二人の心に安堵をもたらした。

 クラウディアは視線をトランへ移すと、穏やかだが確固たる口調で続けた。

「トラン、ひとつ頼みたいことがある」

「僕に……ですか? 一体、何をすれば……」

 トランは困惑した表情を浮かべた。ミラが不安そうな顔でトランを見つめる。

「リノアとエレナが森の小屋で作業をしていると思う。二人に伝言を届けて欲しい」

 クラウディアは言葉を慎重に選び、トランを見つめた。

「トラン、無理しない方が……」

 トランは姉の視線を受け流すように顔を上げた。

「大丈夫だよ、ミラ。僕だって、それくらいのことはできるよ」

 その言葉には、年下ながらも自分の力を証明したいという強い意志が感じられる。

「クラウディア様。任せて下さい。シオンが研究していた小屋ですね。すぐに向かいます」

「シオンの研究所までは安全だから良いが、それより先は危険が潜んでいるかもしれない。トラン、先に進むんじゃないよ。リノアとエレナが小屋にいなかった時は紙を置いて直ぐに戻っておいで」

 そう言ってクラウディアはトランに一枚の紙を手渡した。

「分かりました。そうします。クラウディア様」

 クラウディアの言葉を胸に刻み込み、トランは顔を引き締めた。

 ランタンを手にして広場を出て行くトランの背中は、迷いを振り払うようにまっすぐ伸びている。

「ミラ、トランなら大丈夫よ」

 クラウディアは不安そうにしているミラの肩に手を置いて、優しく声をかけた。ミラが唇をかみながら、小さく頷く。

 広場の空気は冷え込み、鋭い寒気が肌を刺すようだった。薄く立ち込める霞の中で、クラウディアは遠ざかっていくトランの背中を目で
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  • 水鏡の星詠   街道での危機 ⑦

     リノアは星見の丘で手に入れた水晶を取り出して、慎重に見比べた。 水晶と鉱石らしき物体──形状は似ているが、その質感と輝きには決定的な違いがある。「これらの鉱石をアークセリアに持って行きましょう」 エレナの言葉を聞いたリノアは小さく頷いて、自分の手にある鉱石らしき物体を布で包んだ。エレナも同じように包み込む。 リノアとエレナは袋をしっかりと閉じた後、周囲に視線を走らせた。 崖崩れの痕跡が広がっている。 ここで何が起こったのか。まだ謎は解けていない。崖崩れが起きた理由を調べなければ── リノアは考え込むように小さく息を吐き、土砂の広がりを観察した。 硬質化した草木や土、そしてこの鉱石らしき物体。これらが、この場所に影響を与えた可能性が高い。「硬質化したことで、逆に脆くなったんじゃないかな」 リノアはゆっくりと顔を上げ、周囲の状況を改めて確認した。「逆に脆くなった?」 エレナは眉をひそめ、リノアの発した言葉を反芻した。エレナの思考が音を立てるように動き出す。 硬質化――それは通常、強度を増すはずの変化だ。しかし実際は崩れやすくなっている。これは強化が限界を超えて、柔軟性を失ったことを表しているのではないか。 星見の丘のあの光景が、エレナの脳裏に鮮明に蘇る。 あの時、硬質化した草花は、わずかな衝撃で粉々に砕け散った──脆いガラスのように……。 エレナの瞳がわずかに揺れる。「なるほどね……」 息を整えながら、エレナは思考を巡らせた。「乾きすぎたせいで、逆に脆くなってしまった……。衝撃を吸収できないものね」 乾いた砂は湿った砂よりも結束力を失い、わずかな力で崩れてしまう。きっと、それと同じ現象が、ここでも起きたのだろう。 エレナの言葉を受け、リノアが頷いた。 しかし、何か引っ掛かるものがある。 この場所に起こった異変は砂が渇いただけでは説明しきれない。 リノアの目は依然として鋭く、その奥では疑念が渦巻いていた。 リノアは唇を引き結び、崩れた地面を見つめる。 確かに、乾燥しすぎたことで砂の結束力が失われ、脆くなることもあるだろう。だが本当にそれだけ で、ここまで大規模な崩落が起こるだろうか? 何かが足りない。 原因は他にもあるのではないか。「それだけじゃないと思う」 リノアの言葉が場の空気を重くした。リノアの目が別の

  • 水鏡の星詠   街道での危機 ⑥

     リノアは鉱石を見つめたまま、過去の記憶を呼び起こした。 星見の丘──あれは異様な光景だった。 鉱石のあった周囲の土は奇妙な色へと変化し、その部分に生えていた草木は硬質化し、枯れていた。 生命そのものが削り取られたかのように……「あの時と同じだ」 そう言って、リノアは腰の袋に手を伸ばした。 指先に伝わるのは、柔らかな布の感触──その内側に包まれているのは、星見の丘で手に入れた水晶だ。 リノアは直接触れないように細心の注意を払いながら、袋の口を開いて水晶を取り出した。 雲の切れ間から差し込む淡い光を受け、水晶がほのかに輝いている。 リノアは目線の高さまで、ゆっくりと水晶を持ち上げた。「やっぱり乾いてる……。じゃあ、ここにある鉱石に分泌液が付着しているのは、何故なんだろうね」 エレナはリノアが手に持っている水晶を見ながら言った。 沈黙が数秒続いた後、エレナはゆっくりと息を吐き、そして、リノアを見据えながら言葉を発した。「誰かが薬品か何かを付着させた。その直後のものってことじゃないかな」 エレナの声が張り詰めた空気に深く染み込む。「それか私たちが来る前まで少量の雨が降っていたとか」 そう言って、リノアは視線を落として考え込んだ。 鉱石の表面に残る分泌液──その不自然な湿り気がリノアの思考を巡らせる。「でも、周囲の土は乾いている。この鉱石だけが湿っているのは不自然……。いや、水分を保有する性質があるとするなら、それも有り得るか」 エレナの口調は冷静だが、内に秘めた警戒心が見て取れる。「だけど、エレナ……。これって本当に鉱石なのかな?」 鉱石に視線を注ぎながら、リノアは静かに言葉を紡いだ。 水晶の角度を変え、光の反射を確認する。その表面の異質な質感に、リノアの目がわずかに細められた。 鉱石──そう思い込んでいたが、心に引っ掛かるものがあった。『龍の涙』ほどではないが、この鉱石にはどことなく生命力を感じるのだ。 リノアの胸の奥に得体の知れない疑念が広がっていく。──もし仮に鉱石じゃないとするなら……これは一体、何なのか。 リノアは布越しに鉱石の表面を指でなぞった。──この硬さ…… リノアは周囲の変色した土へと視線を移した。 星見の丘で見た枯れた草木、変色した土──同じ現象がここでも起こっているのだとしたら……「ねえ、

  • 水鏡の星詠   街道での危機 ⑤

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  • 水鏡の星詠   街道での危機 ③

     視界は白く閉ざされ、空と地面の境界さえ曖昧になっている。 リノアは腕で顔を覆い、隙間を探した。だが、どこにも通れる場所がない。 行く手を阻む土砂の山── すぐ近くにいたはずの旅人たちの姿が跡形もなく消えている。 声も──消えた。 ついさっきまで響いていた足音や叫び声さえ、風の音に呑まれ、遠い虚空へと消えていってしまった。 リノアは僅かな希望を頼りに周囲を見渡す。しかし、霧のように揺れる砂塵の向こうには、誰の姿も見ることはできなかった。 道が完全に塞がれている。逃げ場は、どこにもない。 孤立したのだろうか── 辺りは風が渦を巻くように吹き荒れている。 砂塵の壁が徐々に薄れ、景色が輪郭を取り戻し始めた。だが、その光景は以前とはまったく違っていた。 荒々しく変わり果てた地形── 崩れ落ちた土砂が無残にも道を塞ぎ、岩と土の塊が不規則に積み上げられている。 リノアは周囲を見渡した。 視界がまだ完全には戻らず、砂塵がわずかに漂っている。その中で、ふと目に入ったのは── 割れた地面から散らばる細かな鉱石の破片が、かすかに光を反射している。その光の中に強く光輝くものがあった。 地面に突き刺さった一本の短剣。そして、その場に横たわる一人の姿──「エレナ!」 リノアは息を荒げながら駆け寄った。 砂塵にまみれながらも短剣を掴む手には、まだ力が残っている。エレナは滑落しかけた瞬間、反射的に刃を突き立てて、自らの身体を支えたのだ。 リノアがエレナのそばに膝をつくと、エレナはかすかに顔を上げた。「死ぬかと思ったー」 その言葉には、安堵とほんの僅かな笑みが浮かんでいる。「エレナ、立てそう?」 リノアはエレナの腕をそっと支えながら尋ねた。ここは危険だ。安全な場所へ移動しなければ。「なんとかね」 エレナは短剣を引き抜くと、ゆっくりと立ち上がった。 リノアはすぐさまエレナの腕を掴んで、エレナと一緒に崩れた地面を避け、慎重に歩いていった。「ここなら大丈夫」 背後に比較的しっかりした大きな岩がある。安全なはずだ。「ありがと、リノア……助かった」 エレナは岩に背を預けると、小さく息を吐いた。 リノアはほっとし、笑みを浮かべると、再び周囲を見渡した。「誰かいる……!」 リノアが震えた声で言った。 岩の合間に旅人たちが横たわっている。「

  • 水鏡の星詠   街道での危機 ②

    「エレナ、早く峠を越えよう」 リノアは緊張を滲ませながら言った。 その時、足元の地面が微かに揺れた。 リノアは反射的に歩を止め、エレナと視線を交わす。 それは、ほんのわずかな揺れ── しかし、それだけで空気の張り詰め方を変えるのは十分だった。 風の音が強まる中、二人の間に沈黙が落ちる。 リノアは息を整え、もう一度峠の先へと視線を向けた。 胸の奥に沈んでいた違和感が次第に輪郭を持ち始めてくる。──この感覚は一体、何だろう。大地の中の何かが静かに息を潜めているかのような…… 風が激しさを増し、背後の木々が二人を急き立てるようにざわめき立てている。 とにかく前へ進もう。それ以外に選択肢はない── 足元の岩肌がむき出しになった坂道を二人は迷いなく踏み出した。 道はすでに崩れかけている。 リノアが地面に足をつく度に細かな小石が崖下に転がり落ちていった。その軌跡を追うように流れていく細かな砂粒────早く、この場から離れなければ。 リノアは瞬時に判断し、走り出した。 エレナもリノアの後に続く。 乱れる呼吸、吹き荒れる風の轟き──すべてが混ざり合い、世界が騒然とした音に包まれる。 しばらく走っていると、峠を越えようとする旅人たちの姿が前方に見えた。彼らも異変に気付き、焦るように足を速めている。「気をつけろ! 崩れるぞ!」 誰かの叫ぶ声が聞こえた。 その瞬間── 雷鳴のような音が響き渡り、崖の一部が崩れ落ちた。「走れ!」 旅人たちが一斉に駆け出す。 岩が崩れ落ちる音が背後から聞こえたかと思うと、瞬く間に視界を奪い去った。 砂塵が舞い上がり、前方を覆ったのだ。「くそっ、前が見えない!」 誰かの声がかき消されるように風に巻かれる。 リノアはその声を頼りに視線を向けたが、舞い上がる砂塵の中で影しか見えなかった。 ここで足を止めれば、そのまま飲み込まれてしまう──「走って! 立ち止まったら危ない!」 リノアは咄嗟に近くにいた旅人の腕を掴んで、荒れた道を駆け抜けた。「リノア、こっち。道を塞がれる前に駆け抜けて」 エレナは息を荒げ、力強く言葉を発した。 だが、その直後、轟音が響き渡った。大地が揺れ、岩が滑り落ちる音が背後に迫る。 先ほどとは比べ物にならない大きな音……。 崖が崩れ、岩が猛然と滑り落ちてくる。「逃げて!

  • 水鏡の星詠   街道での危機 ①

     順調に行けばアークセリアまでは三日ほどで辿り着く。 リノアとエレナは穏やかな雰囲気の中、街道を歩いていった。 風が枝を揺らしながら通り抜けていく。 木々のざわめきは柔らかく、葉が揺れながら微かな音を立てている。踏みしめる土はわずかに湿り気を帯び、足裏から伝わる感触は柔らかい。「たいぶ、人が減ったね」 エレナがぽつりと呟いた。 ほんの少し前まで旅人や行商人が行き交い、賑やかな声が響いていた。喧騒の余韻が、まだかすかに空気の中に残っている。 視線の先に見える旅人の姿に、リノアの記憶がふと揺さぶられた。 あの日の夜、オルゴニアの樹の下で目にしたあの人影── あの人たちは様々な場所に出向いて、生命の欠片を探し回っているのだろうか。自然を傷つけながら…… 硬く変質した草木は、もはや回復することはない。それどころか、土に還ることさえ叶わないのではないか──そんな疑念が胸をよぎる。 あの人影が、この旅人たちに紛れ込んでいても、それを見分けることはできない。今のところ不穏な様子を見せる人の姿はないが……。 微かな違和感は確かにある。 けれど、それは人に対してではなく、もっと別の、得体の知れない何かに向けられたものだった。 空気がいつもより重く感じられる。 わずかに湿気を含んだ風が肌を撫で、遠くには低く垂れこめる雲が広がり始めている。 昼以降、天気が崩れるのではないか。 リノアは無意識のうちに歩みを緩め、仰ぎ見るように空を見つめた。「この辺りは天気が崩れやすいみたいだから、油断できないね」 エレナの言葉にリノアが頷く。 山の天候は不規則で変わりやすい。今は穏やかな天気でも、十分に注意しなければならない。「それにしても、アークセリアまで三日か……。ずっと歩くのもなかなか大変ね」 エレナは小さく息をついた。 道は緩やかな傾斜を描き、石が混じる地面が足裏に硬さを伝えてくる。 低地では豊かに広がっていた草木も標高が上がるにつれてまばらになり、背の高い樹々は少しずつ減っていった。「思ったより登ってきたね」 エレナが歩を緩めて振り返る。 これまで歩いてきた街道が眼下に伸びている。 遥か遠くまで続く道、その両脇にはぽつぽつと建物が並び、畑が規則的に区切られている。さらにその向こうには、ぼんやりと霞む森が広がり、その輪郭は空と溶け込み青みが

  • 水鏡の星詠   新たなる旅立ち ⑧

    「……こんなにいるんだ」 リノアが呟く。 驚きと懐かしさが、その表情に浮かんでいる。「何か気になるの?」 エレナが歩みを緩め、リノアに視線を向ける。「村では、ほとんど見なくなってたから、何だか嬉しくて」 枝葉の間を舞う鳥たち。光を受けて揺れる羽根が風に乗って穏やかに流れていく。 エレナもふと空を見上げた。 その視線には言葉にはできない想いが滲んでいる。「ここは……まだ生きてるんだね。」 エレナは静かに息をつき、そのまましばらく空を眺めた。 風が森を抜け、鳥たちの鳴き声が優しく響く。 リノアはそんなエレナの横顔をちらりと見つめた。 普段はあまり表情を変えないエレナが穏やかな光を瞳に宿している。 エレナは何を思っているのだろう── 時に鋭く、時に静かに物事を見つめるエレナの眼差し。けれど今は、その硬さが和らぎ、どこか遠い景色を眺めているように見えた。 そんな姿を見るのが、リノアは嫌いではなかった。 言葉にしなくても、その横顔を見ているだけで、なぜか心が落ち着く。何も話さなくても、そばにいるだけで十分だ。 リノアは周囲を見渡した。 私たちの村の森は衰えつつあるというのに、この街道沿いは、まだ生命が深く息づいている。 街道を行き交う旅人や行商人、そして簡素な休憩所に腰を下ろして談笑に耽る人たちがいる。 人の往来は多く、馬の足音や荷車の軋む音も聴こえるほど賑やかだ。 それでも、ここでは森の息遣いが感じられる。 人がいない静寂の森ならともかく、この場所は賑わいの中にあるというのに……。 自由に枝葉を広げた木々、しっとりとした土、そして大木を力強く支える根。 ここは自然と人が共存する憩いの場だ。 道だけが踏み固められ、草木はなくなってはいるが、この場所だって人が歩かなくなれば、きっと直ぐに回復するのだろう。 鳥の声が風に乗って響き渡る。 どこまでも遠くへ運ばれていくその音色────かつての村の森も、このように息づいていた…… リノアの胸にかすかな痛みが走る。 最近の森の変化は異常であり、その原因は分かっていない。 村の長老たちでさえ、かつての豊かさが失われた理由を語ることはできなかった。 私たちの理解を越えた何かが起きている可能性は勿論ある。だけど私たちにも、きっと原因があるはずだ。──必要以上に自然に介入しな

  • 水鏡の星詠   新たなる旅立ち ⑦

    「リノア、準備はいい? そろそろ行くよ」 エレナが問いかけると、リノアは小さく頷いた。「うん。行こう、アークセリアへ」 神殿は村の管轄外とは言え、決して立ち入りを禁じられていたわけではない。それでも、リノアは長い間、この場所へ足を踏み入れることを避けていた。 それは自分と向き合うのが怖かったからだ。 戦乱後、両親が突然、姿を消してからというもの、心に大きな穴が開いていた。それを埋めるには勇気が必要だったのだ。 ノクティス家と密接に結びつく神殿に足を運べば、自ずと過去に触れることになる。 もし、ここで過去と向き合えば、知らなかったこと、知りたくなかったことまで明らかになってしまうかもしれない。 それが怖かった。だが、今は違う。 シオンが亡くなってから、私の心境は大きく変わった。きっと意識はしていなくてもシオンに頼っていたのだと思う。 シオンがそばにいたからこそ、過去に向き合わずとも前を向くことができた。だけど。もう目を逸らしている場合ではない。 リノアはゆっくりと息を吸い込んだ。 これまでのことを無かったことにするつもりはない。ただの過去として終わらせるわけにはいかないのだ。 リノアとエレナは神殿の扉を押し開き、外へと足を踏み出した。神殿の周囲はひっそりとしており、遠くで風が木々を揺らしている。 朝と昼の狭間――微睡むような光が森を包む中、二人は歩みを進めた。 空はすっかり朝の名残を薄め、やわらかな光が木々の間に差し込んでいる。昼の活気にはまだ届かず、かといって朝の静けさとも異なる、移り変わりのひととき。 旅立ちの足取りは軽やかでありながらも、どこか慎重な色を帯びていた。 だが、リノアはもう迷うことはない。──この足で、今まで見なかったものを確かめに行こう。 リノアは星見の丘の下からオルゴニアの樹を仰ぎ見た。 樹齢千年を超える古木──オルゴニアの樹は圧倒的な存在感を誇っている。 枝葉が天を抱くように広がり、光を透かすように揺れる葉の影が丘の緩やかな傾斜に模様を描いている。 リノアは、しばしその姿を見つめた。 風が吹き抜けるたびに、樹の枝がかすかに揺れ、その葉擦れの音はまるで囁きのように響いた。 この場所には積み重なった時の記憶が息づいている。 千年もの時を超え、変わらずそこに立ち続けている樹木。オルゴニアの樹は過去と

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